太宰治『走れメロス』読書会(2019 7 5)のもよう

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2019.7.5に行った太宰治『走れメロス』読書会のもようです。

メルマガ読者さんの感想文です。

私も書きました。

『自由のための護民官メロス爆誕!』

今回、読み直してみて、メロスの反動的性格に閉口した。自分の直情を、そのまま行動に移す短慮にも閉口した。高校生の頃だろうか、「走れメロス」最初に読んだときは、メロスが正義を貫こうとして、煩悶する姿に、強く感動した。水を飲んで、「ほぅ」とため息もらして、走れる、義務遂行の希望だ! なんて、つぶやくところなんて、感情移入してしまった。メロスは単なるナルシストである。たぶん、どうかしていたと思う。あの頃は、自分もナルシストだった。太宰のレトリックは読者を酔わせる。

メロスは、迷惑な男である。支配者に政治的に利用されるだけの、愚かな牧人である。魯迅の描いた「阿Q」と、同じで、無自覚な『精神的勝利法』を駆使して、生きている。無知と正義が結びつくと、ナルシストの反逆者が生まれる。この反逆者は、反逆が、自己目的なので、たとえ、反逆が成果をあげても、容易に支配者に懐柔される。なせなら、ナルシシズムが満足されることが最終目的なのだから。ナルシストの反逆は権威主義の肥料になる。メロスのような、ナルシストの正義漢は、権威主義の温床に、毒キノコのように生えてきて、逆説的に王権を強化するのである。

なんたって、自分が正義だと思うことが、世間一般で正しいか? このことを、哲学的に理解するのは難しい。

バレバレの信賞必罰で統治するというのは、下手な支配者のやることだ。ディオニスが、富裕者から人質をとって、恐怖で支配するというのは、みえみえのムチの部分だ。だから、一方、みえみえのアメもあるはずなのである。メロスが遅れてきても、ディオニスは自らの寛容を「アメ」としてみせるために、群衆の前で、メロスを許したかもしれない。これが怖い。間に合っても許すくらいだから、遅れても、許しただろう。「ちょっとおくれてくるがいい」という王のセリフは、民衆に対するアメである。そのアメは、民衆の卑怯で、臆病なところに、ピンポイントで効く。

もし仮に、メロスにしっかりとした政治思想があって、政治的技術を駆使できれば、彼はすぐさま、群衆を先導し始めるだろう。王権に反発する諸集団を切り崩してクーデターだ。やがて王を逮捕して、革命裁判にかけて絞首刑に処するだろう。そして、そのためには、メロスは護民官になるかもしれない。

メロスの英雄的凱旋から、クーデターの機運がMAXに達したのに、みすみす王様に懐柔されているというのは、なんというご都合主義丸出しの結末なのだろう。いったい、なんなんだ!? メロスとセリヌンティウスが、殴り合って、抱き合う姿に感動するようなナイーブなメロドラマは、昭和15年の時局への配慮なのか?

王権に対する「忖度」と、「反逆」と、「傍観」の三すくみによって、権威主義的体制が出来上がっている。『もっと大きな恐ろしいもの』は、権威主義の中で絞め殺されていく『自由』を指しているはずである。だが、メロスは、『自由』から逃げたのだ。『自由』の代わりに、安易な『友情』を選んだ。自由になりたいなら、その場で、ディオニスを刺せ。(芥川賞くれなかった川端康成には『刺す』といったが?)刺さなきゃ、ますます露悪的になった暴君ディオニスによって、たちまち懐柔され、巻き返され、さらなる暴政が群衆の自由を抹殺するゾ!

(おわり)

読書会の模様です。

 

  • 2019 12.11
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