7/25(土) ドストエフスキーの『罪と罰』の読書会を行います。

この記事は5分で読めます

2015/7/25(土)に

「ドストエフスキーの『罪と罰』を精読する読書会」

を行います。

日時:2015年7月25日(土) 15時~17時頃まで

場所:長野市 もんぜんぷら座 会議室701

地図はコチラです。

(参加費無料、要申し込み)

 

 

あらすじは、ざっくりいうと、

貧乏で頭脳明晰で、ナポレオンに憧れる大学生、

ラスコーリニコフが、高利貸しの婆さんを斧で殺して、

警察から逃げまわるというクライム・サスペンスです。

 

ただ、普通のクライム・サスペンスと違うのは、

様々な登場人物を通して、作品の中で

神とは、善とは、何か? が問われている点です。

 

『罪と罰』には1866年当時の

ロシア、サンクト・ペテルブルグを席巻した

イギリス発の経済思想、法哲学である

功利主義(ユーティリティズム)そして、

それをフランスで社会学として発展させた

実証主義(ポジテヴィズム)と

ロシア正教の政治的対立が

描かれています。

 

主人公である学費未納で休学中の大学生のラスコーリニコフは、

『高利貸しの老婆を殺して、彼女の財産を再分配しても

『最大多数の最大幸福』ためなら罪悪感など感じないはずだ。

なぜなら、ナポレオンも、大義のためには、人殺しを厭わなかったから。』

 

こんな、とんでもない思想を、極貧生活のなかで思いつき、

計画どおり老婆を斧で殺します。

しかも、偶然にも居合わせた老婆の妹をも、ついでに殺してしまいます。

 

周到な計画と、確固たる思想で行った殺人でしたが、

さて、実行してみると、彼は、予期せぬ精神状態に陥るのです。

 

それは、罪悪感を乗り越え、老婆殺しを実行した自分が

もはや、理性も失っているのではないのか?

という、自分で自分のことがわからない状態です。

 

その茫然自失の精神状態は、耐え難い絶望となって彼を襲います。

 

 

彼は、狂気に苛まされながら、結局、自殺か自首かで迷います。

 

結論もつかないまま、うわごとをいいながら

サンクトペテルブルクの街をさまよい、

やがて一人の売春婦ソーニャに出会います。

 

貧困家庭に育ったソーニャは、アルコール依存の父と結核の継母の

元に育ち、満足な教育も受けられず、

幼い兄弟たちのために生活費を稼ぐため、

自らすすんで売春婦になりました。

 

なんの希望もない貧困家庭を独りで支える彼女のよりどころは、

聖書と信仰だけでした。

そしてソーニャの信仰生活を共に生きていたたった一人の仲間は、

ラスコーリニコフが殺した、老婆の妹だったのです。

 

神を失ったラスコーリニコフは、自分なら耐え難い境遇を

サバイバルしているソーニャに、関心をいだきます。

 

最初は、ソーニャをカルト宗教の狂信者として嘲笑っていた

ラスコーリニコフも、やがて、彼女の信仰によって、

「神にとって一切は可能」であること。

そして、

人間の希望は人間の中にしかない

という事実を学び、自分自身を絶望の中から回復します。

 

とりわけ、ソーニャが、新約聖書のヨハネ福音書のラザロの復活を読み上げたことで

人間にとって復活であり生命であるイエス・キリストの意義を悟るのです。

 

 

一方で、ラスコーリニコフの妹、ドーニャを執拗に追い回す

スヴィドリガイロフという変態紳士も、

ソーニャとラスコーリニコフのラザロの復活のやりとりを盗み聴いて

彼らに深い関心を寄せ始めます。

 

彼は、無神論者であり、おそらく殺人鬼なのですが、

この世で一番欲しかったドーニャからの愛を、手に入れられずに絶望します。

彼の絶望は、神を欠いているので、一切の救済がありませんでした。

 

そこで彼は、自らの財産をソーニャに託して自殺します。

 

神を信じることができず、この世に生きる意義を

風呂場に閉じ込められている蜘蛛のようにしか理解できない

スヴィドリガイロフは、ラスコーリニコフの未来の姿でした。

 

スヴィドリガイロフは、ラスコーリニコフの成し得なかった

『最大多数の最大幸福(The greatest happiness for the greatest number)』を

彼なりの方法で、実現します。

それは、悪を引き受けて、金だけを再分配することです。

 

文芸評論家、小林秀雄は、『罪と罰』をキルケゴールの『死に至る病』の

小説版と称していたようですが、慧眼だと思います。

著名な神学者、カール・バルトも同じことを言っているそうです。

 

現代のように新自由主義が進み、人間が「数(ナンバー)」として扱われる悲劇は

すでに『罪と罰』の描かれた時代には、ありふれていたのです。

 

ソーニャのような庶民の少女が生活の必要から身を売って、

20代なかばで精神的に廃人になっていく

どうしようもなく希望のない社会は、今にはじまったことではありません。

 

ラスコーリニコフは、そんな腐った社会を良くするために、

金貸し老婆を殺して、金を再分配して、

希望のない社会の希望のない若者を救おうと、

彼自身の思想を育て上げました。

 

しかし、いざ殺人を実行してみると、ラスコーリニコフは、

自分はナポレオンのように偉大にはなれないし、

手前勝手な善意だけでは、人間はどうやったって

救われないうえ、気が狂いそうになることに気づいたのです。

 

 

人間をかけがえのない魂として救済するには、どうしたらいいか?

ということが、『罪と罰』にはダイナミックに描かれています。

 

ニーチェは、ただ、行儀よく善を分配するのではなく、

悪を引き受けられる余裕のある人間こそは、社会の必要悪を自ら進んで引き受けなさいと

『ツァラトゥストラはこういった』の中で述べていますが、

政治の本質が悪であるならば、必要悪を引き受ける人間が必要です。

 

ラスコーリニコフには、そこまでの力はありませんでした。

神を見失った無力な青年が、この世に取り残され

茫然自失のまま、おろおろするだけだったのです。

 

社会の必要悪に、目をつむれば

人間は、エゴが深まり、人間の魂に無関心になっていきます。

 

そして、社会が処理しきれない必要悪が、溢れだして

それを人柱のように引き受ける社会的弱者が生まれます。

 

その人柱としての役割を、

神への信仰心だけで、受け止めるソーニャの姿に

ラスコーリニコフは、イエス・キリストの復活と生命を感じます。

ソーニャに励まされ、彼は回心し、信仰の道を歩みはじめます。

自分が殺した老婆の妹の、十字架を握って。

 

ドストエフスキーは、ラスコーリニコフという

高邁な思想を抱きながらも、

最後まで臆病であった青年の愚かな殺人事件を通して

社会の必要悪に目を瞑る社会には、

人間の魂の救済の可能性がありえないことを

鋭く批判しています。

 

この世に救済がないことは、社会に希望がないことよりつらいことです。

信仰にしか救済がないことを、ドストエフスキーは描いているのですが、

なんせ、キリスト教徒ではない大方の日本人には、その意味がわかりません。

 

しかし、これだけ新自由主義が進んだ社会になると、

救済というものも、個人の精神生活の防衛のためにどうしても必要となります。

 

人間には、なぜ魂があるのか? 人間はなぜ神を必要とするのか?

そういうことをスッキリ整理して理解するにはおすすめの小説です。

 

新潮文庫の工藤精一郎さんの訳で読んでいきます。

世界文学の名作なので、この機会に是非一緒に読んでみましょう。

 

音声解説もしています。

 

 

人物一覧などは、こちらをご参照ください。

レジュメはこちら

前回の読書会の音声です。

ロシア語版はこちら

 

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