太宰治 『ダス・ゲマイネ』読書会(2019 12 20)

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2019.12.20に行った太宰治 『ダス・ゲマイネ』読書会のもようです。

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私も書きました。

「知ることは幸福であるか?」

太宰を読み直すにつれ、以前読書会で扱った又吉直樹さんの芥川賞受賞作品の『火花』の中に潜んでいた太宰のエッセンスを、強く感じるようになった。『火花』には、神谷さんという破滅型の先輩芸人が出てくるのだが、彼は、『ダス・ゲマイネ』の馬場によく似ている。

この作中で、太宰を殴ったあとに、馬場が、芝居の台詞みたいなリズミカルな口調で語った「『荒城の月』の作曲したのは誰だ。滝廉太郎を僕じゃないという奴がいる」という泣き落としは、佐野次郎の気持ちが、太宰に移っていったのを見計らっての、演技である。才能や魅力は、人を惹きつける。若者の熱狂は移ろいやすい。泣き落としで、馬場は、佐野次郎の気をもう一度、惹こうとした。でも、いったい、何のために?

『火花』 の神谷さんは、後輩芸人の徳永に「俺の伝記を書け」と言い、その内容にふさわしい佯狂を演じ禅問答をふっかけて、一生懸命に徳永をひきとめていた。お笑いも、芸術談義も突き詰めれば禅問答みたいになる。アパートでの『海賊』の打ち合わせは、太宰と馬場と佐竹の下手な禅問答である。だが、この禅問答の、本当の答えは、佐野次郎の行動によって明かされたのだ。

世の中に、恰好をつけるために、彼らは群れる。己の才能は、頼りないから、三人寄れば文殊の知恵とばかりに、徒党を組む。例えば、お笑い芸人なら、弟子入りするか養成所に入るだろう。そうやって、芸能界や同人誌の鳥居をくぐり、、己のわずかな才能や魅力を担保とした、本物か偽物かわからない手形を振り出して、世の中に向かって恰好をつけようとする。

その手形が世の中にどこまで流通するのか? 芸人でも作家でも売れるというのは、怪しい手形を人に押し付けるような、一種のやましさがあるに違いない。多くの人が、やましさで逡巡する一の鳥居を、えいやとばかりに、くぐってしまえば、あとは着飾ったイチゴの悲しみばかりだ。怪しい手形が、いつか不渡りなるまでのタイムラグこそ、ばけものの恰好をした者の悲しみだ。

馬場の振り出した手形が、太宰に渡って、そして佐野次郎に押し付けられた。

その手形は、結局は不渡手形だったのだが、佐野次郎は、その手形を受け取るまで、彼らの茶番に巻き込まれた。そして、とうとう彼だけが手形の決済にまつわるからくりを直観した。馬場の言う通り、フレキシビリティの極致であり、知性の井戸の底であり、禅問答の唯一の答えは、佐野次郎自身だったのだ。

その答えを持って、佐野次郎は、意味不明なことをつぶやきながら、走り出したゆえに、電車にはねられ、死んだのである。

鰯の頭も信心から。『お稲荷さんを拝んだ後の空虚』は、宗教の領域だ。『空虚』の本質を知ることこそが、仏教では智慧の本質だろう。それをもって「悟り」というのであれば、悟ることは幸福でもなんでもない。悟れば、結局、人は、走り出さざるをえず、電車にはねられざるをえない。

残された生悟りの者たちは、また一から、怪しい手形にまつわる下手な禅問答を、延々と繰り広げはじめる。そして手形が世間で不渡りになるまでのタイムラグを、ともするとそれなりに幸福に遊んで、「人は誰でもみんな死ぬさ」、とうそぶきながらも、けっこう長生きするのだ。

 (おわり)

読書会の模様です。

  • 2020 04.20
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