谷崎潤一郎『春琴抄』読書会のもよう(2019 9 6)

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2019.9.6に行った谷崎潤一郎『春琴抄』読書会のもようです。

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私も書きました。

『春琴とともに飛べる領域』

佐助はなぜ正式に彼女と結婚しなかったのか春琴の自尊心が今もそれを拒んだのであろうかてる女が佐助自身の口から聞いた話に春琴の方は大分気が折れて来たのであったが佐助はそう云う春琴を見るのが悲しかった、哀れな女気の毒な女としての春琴を考えることが出来なかったと云う畢竟めしいの佐助は現実に眼を閉じ永劫不変の観念境へ飛躍したのである。

 

要するに、春琴がMなのではないか? 春琴の驕慢な態度が、世間のサディズムを刺激しているとすれば、彼女はMである。普通は、性病である風眼をうつされたり、鉄瓶の熱湯を顔にかけられたりしないわけだ。彼女が世間のSっ気を、誘っている。芸事の三味線の師匠としては、弟子たちにどこまでもSであった春琴も、世間に対しては、どこまでも無力でMであった。独り立ちできない、か弱い盲人の女性である。

佐助の甲斐甲斐しい献身も、結局は裏目に出て、世間から恨みを買い、ことあるごとに、二人は世間に無力をさらして責め立てられている。利太郎の横恋慕からくる嫌がらせも、貧しい弟子の付け届けの白仙羹のエピソードも、つまるところ、佐助のへまであり、しくじりである。春琴が最終的に当たるのは、佐助の至らなさに対してである。しくじっては、叱られる。そういう意味で、目を突いたのも、佐助の付き人としての責任のとり方だ。

ただ、ふたりが夫婦の関係になれば、佐助が死ぬまで、目なぞ突かずに、男として春琴を守らなければならない。そうすれば、世間はもうこの二人をいじめないだろう。佐助がすべての世間の矢面に立ち、漱石の『門』の宗助と御米のように、共依存のなかで世間に埋もれるばかりだ。

異常な師弟関係を続けることで、二人は世間と緊張関係を保つことができる。春琴は世間に対してM、佐助は春琴に対してMでいられることで、抑圧の移譲している。その抑圧の反作用こそが、芸事の一門の精神的紐帯を固くする。

佐助は、芸に貪欲であり、芸の完成のために春琴をご本尊に祭り、崇拝したともいえる。お手洗いでもお風呂でも、彼女が一切を佐助に任せたというのは、甘やかしながらも彼女の無力感をどこまでも育てることである。芸の師匠としての春琴はSだが、それ以外は、どこまでも無力な女性に春琴の存在に陥れたのは佐助の戦略である気がする。同時に、芸事の中で、春琴を守ったのだ。

春琴が、師匠としても無力な存在になられては、佐助には具合が悪い。自分も目を突き、世間的に無力な介護者になる下がることによって、春琴を盾にして芸を完成させ、検校にまで上り詰めたとすれば、佐助には佐助の無意識の計算あったように思う。

芸事において自由を確立するというのは、夫婦の共依存も世間の政治的圧力も届かない領域を確保することだ。『眼を閉じ永劫不変の観念境へ飛躍』するというのは人間に許された最後の尊厳の在り処ではないか。

1933年、ナチスが政権をとった年の作品だ。抑圧の深まる世間に抗して、谷崎は観念の世界に逃げたのではない。観念を想像する世界にこそ、政治権力の及ばない人間の領域の最後の砦がある。春琴の雲雀は雲間に消えたが、佐助の頭の中には、まだ春琴とともに飛べる領域が残っていた。

(おわり)

読書会の模様です。

 

  • 2020 01.20
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