大岡昇平『野火』読書会(2019 8 9)のもよう

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2019.8.9に行った大岡昇平『野火』読書会のもようです。

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私も書きました。

 『野火とは、何か?』

 

死者たちは笑っていた。もしこれが天上の笑いというものであれば、それは怖ろしい笑いである。この時、痛い歓喜が私の天辺から入って来た。五寸釘のように、だんだん私の頭蓋を貫いて、脳底に達した。

思い出した。彼等が笑っているのは、私が彼等を食べなかったからである。殺しはしたけれど、食べなかった。戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果であるが、確かに私の意志では食べなかった。だから私はこうして彼等と共に、この死者の国で、黒い太陽見ることが出来るのである。

しかし銃を持った堕天使であった前の世の私は、人間共を懲らすつもりで、実は彼等を食べたかったのかもしれなかった。野火を見れば、必ずそこに人間を探しに行った私の秘密を願望は、そこにあったのかも知れなかった。(P.208)

 

野を彷徨い、野火を見る。野火の下には、人間がいる。

兵士は、命令系統の中で行動する限り、兵士である。軍から離れれば、それは、ただの人間である。社会状態を生きようとすれば、記憶が重要になる。記憶の反復を習慣として、人間は社会秩序をなして、生活している。兵士もそうだ。

人間の理性は、人間を食べるように人間に命じはしない。しかし、一度人肉を食べる習慣を身につけてしまえば、そういう生き物にとして生きる。人肉を人肉として食べるものは、文明以前の低い段階の社会秩序の住人である。戦争は、一人の兵士から、理性を奪い去り、記憶を脱落させる。銃を持った堕天使として、共食いする獣として、その下に人間のいるであろう野火を求めて、野を彷徨わせるのである。

野火とは、人間が、神の使いとして人間を懲らす目標でもあれば、人間が、堕天使として、人間を殺して食うことの象徴でもある。理性は、人間をみている。戦場で終始、田村をみていた何かは、私は人間の理性だと思う。理性は、人間を懲らしめ、矯正する。しかし、自然状態における本能は、理性の失われる極限状態においては、記憶喪失のまま人間を貪り食わせる。その二面性の間に、実は、私たちの生活がある。

現代社会にも野火は上がっている。私たちの周囲は、死者の世界の隣にある。人間は、現在、人間を別のかたちで貪り食っている。暗い空に、黒い太陽は輝いている。死者の国では、死者たちは笑っている。

(おわり)

読書会のもようです。

 

  • 2019 12.11
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